『黒執事』は、現実の歴史とはひと味もふた味も違った、自由でカオスな世界観をもった作品です。
実際にあったことをベースにしている部分もあれば、そうでないところもあり、すごいジャンプ力で私たちを遠くに連れて行ってくれることもあります。
このコーナーでは主に、現実の歴史背景を紹介しながら、それらが『黒執事』にはどう反映されているのかということを書いていきたいと思います。
村上リコ
フリーライター。好きなものは十九世紀後半~二十世紀初頭の英国の生活文化と、女性向けのコミック・アニメ。 2003年、森薫さんによるコミック『エマ』の副読本『エマ・ヴィクトリアンガイド』を企画・共著。同作品のアニメ化では時代考証として参加した。アニメ『黒執事』には「考証協力」という役割で参加予定。シナリオ会議で「ねただし&しらべものがかり」をやっております。
サイト:http://park2.wakwak.com/~rico/
◆ 第二回 : 貴族の食卓

 こんにちは、村上です。お久しぶりです。前回の更新からずいぶん間が空いてしまいました。アニメ『黒執事』、ごらんになりましたか?いろいろ凄かったですよね。 以下の文章は、実は昨年のうちに用意してあったのですが、ちょっと手違いがありまして更新されずに残っていたものです。タイミングを逸した感はありますが、十九世紀の英国貴族の食生活について書いたものです。お楽しみの一助になれば幸いです。

貴族の食卓貴族の食卓

さ

 て今回は、ファントムハイヴ邸のお客様になったつもりで、ヴィクトリア時代の英国貴族の食生活をのぞいてみることにします。

早朝・深夜のお楽しみを逃さないために、もちろん泊まりがけのハウスパーティーで。ひとつよろしくお願いします。
原作コミック『黒執事』の記念すべき最初のページには、こんなフレーズが書かれています。

 「ファントムハイヴ邸当主の朝は、一杯の紅茶(アーリーモーニング・ティー)から始まる――」

 嗚呼、憧れの「早朝のお茶」。人員の足りている貴族の邸宅では、ご主人には執事や従者が、奥様には侍女が、ご子息にはフットマン、お嬢様にはメイドが、お茶を届けて起こすことになっていました。ビスケットやトーストが添えられ、ベッドに入ったまま優雅にいただきます。これは十九世紀の初めごろに定着した習慣で、英国のトラディショナルなホテルでは、現在もサービスとして行われているそうです(私はいつも節約ギリギリ旅行なので、残念ながらまだ経験がありません……だから憧れ)。


お

 次は朝食です。午前9時~10時あたりが目安です。

庶民の食卓は毎日毎日トースト、卵、ベーコンの繰り返しでしたが、貴族の朝食はもっと豪華、かつ変化にとんでいました。朝からさまざまな種類のパン、マフィン、甘くないパンケーキ、甘いケーキ、スコーンなどにジャム・バター・はちみつ・クロテッドクリームを添えて。ハムをはじめ冷たい肉と、キドニー(羊の腎臓)のソテーなど温かい肉料理、オムレツ、魚、お米料理からカリーまで楽しめることもあります。好きな時間に来て好きな席にすわり、好きな料理を好きなだけ自分でとる、日本でいうバイキング形式の場合もあれば、執事やメイドがサーブしてくれることもありました。紅茶やコーヒーはお好みで注いでもらえます。この時間に貴方あての手紙が届いていれば、執事が銀の盆でそっと差し出してくれるでしょう。

 昼食(ランチョン)は午後1時~2時くらいから。家によっては節約・手抜きが奨励され、一度食卓にのぼったロースト肉を、刻んで煮込んで作り直したシチューとか、火を使わないメニューだけで済まされることも多かったとか。そこはセバスチャンさんがいれば、いつでも手の込んだ料理を作ってくれるので安心です。ピクニック、狩猟、ボート遊び、遠足的なお楽しみがある日には、バターで固めた壺詰め肉やシーフード、ミートパイ、プディング、シャンパン、ワインのボトルを詰めた豪勢なピクニックバスケットが用意されます。

 お待ちかねのアフタヌーン・ティーは午後5時ごろ。時間帯から「ファイブ・オクロック」という別名もあります。紅茶と甘いものと軽食をとり、遅い夕食までお腹をもたせます。この習慣は1840年ごろ、第七代ベッドフォード公爵夫人が上流階級にはやらせたといわれています。セバスチャンさんはいつも、英国の伝統菓子をベースに、地場のフルーツを使って華やかにアレンジしたケーキを出しています。……何か、怪しいおまんじゅうが登場したこともありますが……。

 一日で一番豪華な料理は晩餐(ディナー)です。開始時刻は午後8時。時代が進むにつれどんどん遅くなっていったそうです。スープから始まって、魚料理や種々の肉料理が続き、あいだに口直しのシャーベットがはさまったりもしながら、甘いお菓子、チーズ、フルーツにデザートワイン、コーヒーで締めます。このように、ひとりにひと皿ずつこぎれいに盛り付けられた料理を順番に出す、今でいう「コース料理」的な給仕方法が英国に定着したのも、十九世紀後半だといわれています。フランス風料理が人気だったので、当時のレシピ集を調べていると、読めないフランス語が多発して困ります。過去にはヨーロッパにいたこともあるらしいセバスチャンさんの料理は、リッチで繊細な味わいなのでしょう。


ま

 だ終わりではありません。夜食(サパー)があります。

舞踏会や夜会、夜の社交イベントがある時は、締めに軽食やお菓子が出ました。サンドイッチやサラダやハムは、盛りつけのセンスが命です。ファントムハイヴ邸をファンシーに飾り、いきなり舞踏会を開かせたリジーも、ひとしきりダンスをした後は「可愛い!」スナックを可愛くつまんだにちがいありません。

 特に夜の催しがなければ、晩餐の2~3時間後にお茶とケーキをいただいて休むこともあります。眠れない時は、執事やメイドに頼めば温かい飲み物を持ってきてもらえるでしょう。そんな感じで、落ち着いたならおやすみなさい。

 ……こうして並べてみると、一日三食じゃとても足らないというか、なんだか食べてばかりの時間割に見えます。量はもちろんたっぷりと、しかも『黒執事』の場合は、美食家のシエル坊ちゃんをして「奴の作るより美味いスイーツを食べたことがない」とまで言わしめたケーキを味わえるのですから、うらやましすぎる地上の天国ですね。


◆ 第一回 : 執事


第

 一回のテーマは「執事」です。この作品のタイトルは『黒執事』。「黒」の部分はひとまず置いて、まず「執事」って何?というところから始めましょう。

 かつて、貴族や地主や大金持ちが暮らしていた英国の大邸宅には、その優雅な生活を支えるために、数多くの「家事使用人(ドメスティック・サーヴァント)」が働いていました。サーヴァントとはいっても奴隷ではなく、少ないながらもお給料が支払われる、れっきとした雇用関係で、たいていの場合は住み込み・食事付き。飲み物や日用品は支給だったりそうでなかったり、いろいろでした。各種のメイドやボーイや庭師や料理人、世帯の規模が大きくなるほどに人数は増え、役職は細分化され、時代が移り変わるにつれて人員構成はどんどん変化していきます。『黒執事』の世界のモデルとなっているヴィクトリア時代後期の英国では、「執事」はだいたい、スタッフの中では一番か、二番めくらいには偉い、という位置づけの役職でした。

 「執事」を英語で言うとバトラー。辞書によれば「酒の給仕係(カップ・ベアラー)」や「ボトル」に由来するとされ、また一説によると「パントリー」という部屋(元はパンを用意する部屋で、後に執事の作業室となる)を根城としていた「パントラー」の後釜であるとも言われています。また、バトラーだけではなく、旧来、使用人を統括する位置にいた「家令(スチュワード)」や、主人の身の回りの世話を担当する「従者(ヴァレット)」も、日本語で同じ「執事」という訳語があてられている場合があります。これらの仕事は、スタッフ不足や雇い主の判断から、ひとりのバトラーが兼任することも多く、われらが主人公セバスチャン・ミカエリスもそのパターンにあたります。スチュワードの仕事もヴァレットの仕事もひとりでこなしてしまいます。(しかも、それ以外のことも全部やっちゃうスーパー執事です。すごい!)

 執事は、家内の使用人たちのトップに君臨して、特に男性スタッフ部門の任免・管理監督・指導育成を担当します。場合によっては邸宅のサイフを握って、必要品の仕入れと支払いなども担当します。いわば人事と経理の部署長を兼ねたような位置づけです。ちなみにこれらは本来、家令(スチュワード)の仕事とされていましたが、ファントムハイヴ家の家令タナカさん(プロモーションムービーでお茶を飲んでるおじいさん)は働かないので、当然セバスチャンがやっています。また、執事を補佐する部下として「従僕(フットマン)」が控えている家も多かったのですが、ファントムハイヴ家では雇っていません。


八

 十年くらい前に実在した、とある執事経験者が、こんなことを言っています。

「従僕の身分だったころは笑いあえる仲間がいたけれど、執事に昇進したら、他のスタッフと距離をおいて、厳しく家内の秩序を守らなければならなかった。とても寂しく、性格的に合わない……」――この人は、せっかくトップの地位に昇進したのに、わざわざ従僕の身分にランクを落として転職し直しました。トップに立つ者ゆえの孤独。でもセバスチャンさんはそんなの全然気にしなさそうです。というか、そういう感情を持っているのかどうか疑問です。

 さて、マネージメント業は置いておいて、それ以外にも執事の日常業務はいくつもありました。

 まず、お酒のボトルは執事の語源になっているというくらいで、大事な仕事のひとつはワイン関係です。早起きしてワインセラーの環境を管理し、いつも上等なワインをキープし、御主人や客に飲み頃で出すためにデカンタし、ちょっと悪くなったものはひと手間かけて魔法のように澄ませたりもしました。グラスや容れ物も美しく保ち、晩餐会ではサーブもします。昔の使用人向け手引書を見ると、当時人気のあったワインの銘柄や特徴、管理法がギッチリと記されています。ワインと執事は切っても切れない間柄なのです。

 ワインにまつわるガラス器の管理は執事の担当でしたが、銀の食器やナイフ、フォークなどの手入れもそうでした。部下を監督して(セバスチャンさんはひとりで)専用の薬剤を使って鏡のように磨きあげます。また、食卓のアレンジメントを監督し、「晩餐の支度が整いました!」と告げることも執事の行う儀礼のひとつです。主人から呼ばれれば、いつでもお茶やコーヒーを運びました。『黒執事』ではセバスチャンのサーブするお茶やお菓子の数々が、目にうれしい見どころのひとつとなるはずです。


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 ストの応対も執事の大切な職務でした。

玄関先で、ご主人に通してよい客か、玄関ホールで自分が応対するか、出入りの業者なら裏口から担当者のところに行ってもらうかなどを瞬時に判断します。熟練の技です。ご主人のところに案内したら、正しい名前と肩書きをアナウンスします。同じように、邸宅に届く手紙の分類も彼が行いました。ガードマンのような、秘書のような、漫画家に対する担当編集者のような(笑)、役割も演じます。

 従者(ヴァレット)がいればその担当となるご主人の身の回りの世話も、いない場合は前述の通り執事(バトラー)が兼任します。これは朝起きてから夜ベッドに入るまで、主人の快適をひたすら追求するという、なかなか大変なお仕事です。きっちりアイロンをかけた服を、その時々の予定にあわせて事前に用意し、着せ替えを手伝います。貴重品を管理し、狩猟に行ったら銃の手入れや弾丸込めなども手伝います。旅行に際しては荷造り・荷ほどきやチケットの手配、時刻表の把握はもちろん、外国行きならその国の言葉も使えることが望ましいとされました。つまり、場合によってはご主人よりも語学に堪能で知性豊か、なんてことにもなりかねません。が、旧い身分制社会にはそう簡単に逆転現象は起きません。

 ご主人様のシエルと執事セバスチャンの主従関係は、たいへん微妙で、この作品独特のとても面白いところです。二人きりになるとそうとう酷いドS発言が多発するのは『「黒」執事』ならでは。しかし、他人がそばにいる時や、日常のお仕事に関しては、忠実な執事像を保っています。二つの顔を持つセバスチャン、その落差がお楽しみなのです。

 動いてしゃべるアニメ『黒執事』で、セバスチャンがどんな執事っぷりを見せるのか――。完成を楽しみにしたいと思います。