年に発足した、近代的な首都警察。賄賂や裏取引、犯罪界との癒着が横行していた旧制度を改め、制服警官による組織的なパトロールで事件の「抑止」につとめたところ
が新しかったのです。「スコットランド・ヤード」とは通称で、最初の庁舎が「グレート・スコットランド・ヤード」という通りに面していたことによります。道の名の語源は一説によると、その区画にスコットランド王の離宮が建っていたからのようです。何にせよこの通称は広く定着し、庁舎が別の場所へ移転したあとも使われ続けています。
ントリーサイドに邸宅を持つ貴族やお金持ちの人びとは、春先から初夏まで首都ロンドンに滞在し、社交を行っていました。
この時期のことを「社交期(シーズン)」と呼び、舞踏会や晩餐会、美術展、園芸ショー、競馬やボートの大レースなど、各種のイベントが行われます。8月にライチョウ狩りが解禁されると、このシーズンは終了し、社交界の人びとは、スコットランドなどの地方へ散っていくのです。
ーストリアのウィーンに建つ壮麗な宮殿。 ハプスブルク家の離宮として用いられていました。
ナポレオンの失脚後、各国の首脳が集まって「ウィーン会議」(1814~5年)が開かれた時、この宮殿では連日舞踏会が催され、当時流行のワルツが鳴り響いていました。一方で、会議のほうはちっとも進展しなかったので「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されました。「えっ、セバスチャン、ウィーン会議に出てた?」「執事じゃなくて、自分が踊ってたわけ!?」などなど、想像するのもまた一興でございます。
国貴族の序列には、上から順に公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の五つの爵位があります。
リジーは侯爵家の令嬢、シエルは伯爵の爵位を持つファントムハイ ヴ家の当主です。男爵のさらに下には、准男爵(バロネット)と勲爵士(ナイト)が続くのですが、上位の五つとは呼びかけ方や扱いが異なります。
話が発明されたのは1876年のこと。英国には79年に入ってきましたが、一般家庭への普及は非常におそいものでした。
ファントムハイヴ邸のような大邸宅には、まず部屋どうしの内線電話が導入され、しだいに外との通信に接続されるようになっていきました。 しかし、伝統的な生活を好む人たちの中には電話嫌いも多かったようです。 ちなみに、マルコーニが英仏海峡を越える無線通信実験を成功させたのが1899年のこと。ヴィクトリア時代に移動しながら通話可能な無線電話があったら、ちょっぴりオーバーテクノロジーですね。
ィクトリア時代(1837~1901)の英国では、麻薬や毒物の規制は、今よりもずっとゆるいものでした。
アヘン入りの商品を買おうと思えば、現代の日本で風邪薬を買うよりも簡単に入手できました。 やがて薬物の常用が問題となり、「1868年の薬事法」で規制がかけられます。薬剤師の国家登録を定め、15種類の指定毒物の販売を、その薬剤師と医師に限定するというものでした。 しかし、アヘンに関しては規制のゆるい「第二種」に分類されたので、実質的には野放しに近い状態が続いていました。
年、第二回ロンドン万博(ロンドン国際博覧会)に日本の美術工芸品が数多く出品され、注目を浴びました。
以来、芸術やファッション、室内装飾、演劇など、幅ひろい分野に「日本熱」が広まっていきました。ロンドンの東洋物産店に新しい版画や着物地が入荷するや、アーティストたちが我先に買いに走ったといいます。二十世紀初頭には、チェシャーの邸宅「タットン・パーク」や、ドーセットの「コンプトン・エーカーズ」、ウィーンのシェーンブルン宮殿などにも、日本庭園が作られるにいたっています。
八世紀の半ばごろから十九世紀を通じて、すごろくやパズルなど、さまざまなボードゲームが流行していました。
歴史や科学の勉強になったり、世界の国々について学べたり、「善き行い」を奨励したりと、子どもの教育に役立つことを目的とした内容が多かった一方、「猛獣の住むジャングル」や「底なし沼」が登場するスリル満点なボードゲームも残っています。 シエルとダミアーノがプレイしていたファントム社のすごろくも、かなり物騒ですね。